徒然、さくら戦線!

ちょっとした社会人の北上さくらが好き勝手に日々を綴るブログ

紙の本と未来の文章

紙の本がね、怖いんですよ。

今にも消えそうじゃないですか。

ちょっと本屋の方から聞いた話が面白かったもので、紙の本はこんな未來を辿るのかなって話を、まあわたしの考えでしかないんですけどしていきたいと思います。

 

デジタルの文章 

電子書籍の台頭で紙の本が駆逐されるなんてのは、もう使い古された言葉だと思います。

以前は完全な異端のような扱いを受けていた電子書籍も、最近では肯定的意見も多く見るようになりました。読みやすさも随分改善されて、本物の本に近い感覚で読めるものもあると聞いています。わたし自身はまだ実際に手に取ったことはないのですが、その利便性には惹かれていまして、金銭の都合でも着けばすぐにでも手に入れたいぐらいです。ついでに、過去にkindleアプリに手を出したものの、使い方がわからず挫折した過去もあります。

でも、だからと言って電子書籍が紙の本に取って代わるかといえばやっぱり疑問で、結局紙の本ありきの電子版の域を出ないんじゃないでしょうか。

 電子書籍とはまた別に、デジタルの文章というのは溢れています。こんなブログもまさにそうですし、ネット小説なんかもあります。これらは何かの電子版ではなく、始めらからデジタルでのみ存在している文章です。今回のお話はどっちかというとこいつらの話です。

 

デジタルで文章を読むこと自体に違和感を持つ人は少ないでしょう。書くとなればさらに減ります。デジタル技術による革命の一つには、どこの誰でも情報の発信者になれることだそうで、紙とペンすら手に入りにくい時代からすればとんでもない進歩です。紙とペンの段階からは言い過ぎかもしれませんが、誰でも文章が書ける時代になっても、全世界に広がる権利を持つのは一部の名文だけでした。大抵の文章は会社だとか学校だとか友人だとかで止まります。直属の上司や担任の先生くらいで止まってしまう文章なんていくらでもあるでしょう。

ですが、今やパソコンやスマホなんていう誰でも持っているこの時代に、それらが一台あれば誰でも作品を作り、全世界に発信することが出来る。本来なら担任や上司で止まり、広くてもサークルか文化祭に来たモノ好きくらいにしか読まれることのないわたしの文章を、今こうして世界のどこにいるとも知らないあなたに届けることが出来ている。これがデジタル技術、インターネットの革命です。

わたしは、紙の本はこれに負けるのだと思っています。

もちろん、買って読む本よりタダで読めるわたしの文章の方が有益だなどという話ではありません。書店に足を運んでお金を払って読む文章が、数回のクリックだけで読める無料の文章に負けるというよりは、書いた後に印刷してもらって製本してもらって配送してもらって販売してもらってようやく読者のもとに届く文章がワンクリックで掲載出来る文章に負けるのではないか、という心配があるのです。ようするに、読み手ではなく、書き手がインターネットに移行するということです。

 

本の権威

本を出すよりも、ネットに文章を上げる方が簡単だという話は別にわざわざ説明するほどのことではないでしょう。ですが、書き手が本からネットに移行するというのは、なにも「ネットで簡単に文章を書けるから、紙の本は作らなくてもいいや」ということではありません。そんな時代が来るなんてことは、流石にないんじゃないですかね。少なくともわたしは本を出せるなら飛びつきますし、現にブロガーの方やツイッタラーの方やインスタグラマーの方の本が多数出版されています。これは本にいわば「権威」とでも言えるものがあるからだと考えています。

 

似たような話だと思うのですが、テレビもネットに視聴者を取られているといないとか。違法視聴の問題はとりあえず置いておくとしても、芸能人よりユーチューバ―の方が面白いなんていう人がいますし、番宣とスポンサーや事務所の意向と自粛と内輪が入り乱れた地上波のバラエティー番組よりネット番組のほうが面白いという声もよく聞きます。わたしは割とテレビも好きな方ですが、たまにそんなことを思ったりもします。

ですが、もしそうだとして、もはやテレビ番組よりネット動画の方がコンテンツとしてクオリティが上だとして、なぜ未だ「地上波で!」という文句が通用するのでしょうか。ネット限定のドラマが地上波でも流れれば話題になります。ユーチューバ―が地上波に出れば話題になります。なぜ、その番組は地上波に放送権を与えたのでしょう、なぜ彼は地上波からのオファーを受けるのでしょう。

それは、結局地上波、テレビの権威が健在だからです。彼らが「権威あるテレビに出たい」と思ったかどうかはわかりませんが、その理由がギャランティにせよ視聴者数にせよ、「テレビに出たい」と思わせるだけの権威をテレビは持っているのです。

 

話を文章に戻しましょう。

書籍の権威というのは大雑把に二つほど思い浮かびます。

一つは、フィルターを通過したことによる信用です。

本を出すのは結構な手間です。まず、文章が書籍になるためには、編集とかデザインとか印刷とか輸送とか沢山の労力を必要とします。だから、それだけの労力を注ぐに見合う文章でないと書籍にはなれません。お金もかかります。だから、書籍はお金を取って売ります。お金を払ってでも読みたいという人が一定数見込める文章でないと書籍にはなれません。さらにいうと、出版社というのはそうやってお金儲けをしています。そんな、社会的な存在なので信用だとかコンプライアンスだとかというものが大事になってきます。会社の名前を載せて世に送り出す文章は、虚偽だとか、誹謗中傷だとか、差別的だとか、反社会的だとか、無断転載だとかであってはいけません。出版社というフィルターを通り抜けた信用に足る文章でなければ書籍にはなれません。この信用というのは、個人が好き勝手に書いて自由にしかも匿名で投稿できるインターネットの文章に対して、大きなアドバンテージであり書籍化した文章に権威を持たせる力になるのです。

(これは余談で、ゼミの先生が言ってたんですが、雑誌論文の敷居はとても高いらしく、論文が審査を通過して雑誌に載るというのは、書籍として発行されるよりもよっぽど大変だそうです。大学四年生のみんな、参考文献は書籍よりも雑誌掲載論文を使うと評価がいいぞ。図書館の学芸員さんに言って複写を取り寄せてもらおう)

もう一つは、実体を持つことの力です。

 デジタルの文章自体に違和感を持つ人はいないだろうと言いましたが、デジタルであれなんであれ好んで文章を書いている人も読んでいる人も、ほとんどは本好きだと思います。だから、ネット小説やネットコラムの書籍化は大きなニュースになります。特に、物書きにとって、自分の創作物が物質として現れる機会は書籍化だけです。読者の中にも、好きな書き手の作品を手に持てることを喜ぶ人は多いでしょう。ただのテキストファイルでしかなった文章が紙の本という実体をもって現れるということは、クリエイターである物書きにとっても、ファンである読者にとってもひとつの到達点であると言えるでしょう。この、書籍化という実体化への憧れがもう一つの権威の源となります。

書籍が権威を持つというのは、文章は紙の本になりたがっているとでも言いかえることが出来ます。これが紙の本の需要を支えることになるのではないかと思うのです。

 

 取次ぎと再販制度

ところで、みなさん、本ってどこで買いますか? そうです、本屋さんですね。私はアマゾンのコンビニ受取が好きです。

では、本屋さんはどこから本を買っているのか? これがわりと今回の胆なんです。

日販とかトーハンという、どれくらい知名度があるのかイマイチわからない会社があります。この人たちは「取次ぎ」と呼ばれる本の卸売りで、大体この二社で50:50のシェアになっています。こういう業界の構造は、「砂時計型」と呼ばれていて、極端な話、すべての出版社はこの二社にだけ本を売り、すべての書店はこの二社からのみ本を買います。なので、出版社も書店も取引相手が減り強力な営業部や大きな倉庫やと流部門を備える必要がなくなり、本業に注力しやすくなります。個人経営の本屋さんがあったり、パソコン一台で出版社になれるなんていう所以はここにあるのです。

 出版業界の取引の特殊さは、この砂時計ともう一つ再販制度というのがあります。再販制度というのは、色々複雑なんで詳しくは各自ネットで調べてもらいたいんですけど、「論文は、一般常識を備えた人間が読んだ時、それ単体で論旨がすべて理解できるように書くべし」とゼミの先生に厳しく言われたものですし、わたしなりにかみ砕いて書いてみます。

これは、つまるところ同じ本を何度でも同じ値段で売ることが出来るという制度です。売ることが出来るというか、本側が変わらない値段で売ってもらえるという方が正しいかもしれません。

本の値引きって見たことないでしょう? 本は文化的なものなので、他の商品と違って市場原理に価値(値段)を左右されないものであるべきだってのが根底だそうです。長いこと本屋の棚にある古くてよくわからない本も、昨日出たばかりの期待の話題作も同じ値段です。安売りしたり、しなかったり、書店員が決めていいことではないのです。

とはいっても、小売りってのは物を多く売って利益を上げてナンボなので、売れない品はそもそも仕入れず、その分人気商品を多く棚に置くのがいいに決まっています。仕入れたけど売れない物は値段を下げるのが世の常識で、スーパーでは売れ残った生鮮食品を半額で売ってでも損失を減らしたりしています。

本屋さんだって、得体の知れないハードカバー1冊置くスペースがあるなら、ワンピースの新刊を2冊置きたいに決まっています。なので、売れないハードカバーは安売りして少しでも損失を回収してから、空いたスペースでワンピースの新刊を2冊置きたいに決まっています。でも、再販制度のせいで得体の知れないハードカバーも定価で売るしかありません。そんな売れないハードカバー、そもそも仕入れたくなくないですか? 本屋が確実に売れるワンピースの新刊しか仕入れてくれなくなったら、出版業界は崩壊します。ここで、再販制度の出番です。

この制度によって本屋さんは仕入れたけど売れなかった本を出版社に返品することが出来ます。しかし、一方的に返品を受け入れ続ければ、今度は出版社側が破産かパンクしてしまいます。なので、出版社も返って来た本のカバーを付け替えたり研磨して綺麗にした後、もう一度売ることが出来ます。当然同じ値段で。これが再販制度です。

本屋さんは、滅多に売れない本でも一応少しくらいは仕入れてみて、思いの外好評なら出版社の在庫からをもう一度仕入れることも出来ます。逆に、それなりに仕入れてはみたけど期待はずれなら返品すればよいだけです。つまり、再販制度によってベストセラー以外にも多くの本が書店に並べることが出来るようになり、文化の多様性を保護することが出来るわけです。

 文化の多様性。これ大事。著作権の目的もここにあるなんていう言説もあるぐらいです。さて、閑話休題。というか、本題に入りましょう。

 

 

本が減っちゃう

ここまで、デジタルの文章、取次ぎ、そして再販制度とお話してきました。私の稚拙な説明ではよくわからなったという方は、「本屋さんは売れない本でも値引きしてはいけない」「本屋さんは仕入れた本を簡単に返品できる」「返品された出版社は返ってきた本をもう一回別の本屋さんに売れる」っていう四点だけ把握してもらって「この返品制度によって本を作って売ることは市場原理からある程度守られるので、文化の多様性を保つことが出来る」っていう認識をしてください。もしくは、ググってくれれば割と簡単な説明がすぐに見つかると思います。

 

で、ですよ。なんだって、紙の本がデジタルの文章に敗北するのか、という話です。

実は、再販制度が揺らいでいるんですよね。

ここまで引っ張って拍子抜けな話かもしれないですが、ごくごく単純に再販制度が揺らいでいます。

本屋さんは返品できる、出版社は再販できる、そんな中で、取次ぎは何ができるのでしょう。答えは、特にありません。取次ぎは出版社が作った本を本屋さんに運びます。本屋さんで売れない本が返品されれば、それを出版社に運びます。返品された本が再販されるとき、また出版社から本屋さんに本を運びます。再販制度の恩恵はなにも見当たりません。それどころか、輸送費用がかさむばかりなのです。

本屋さんと出版社のシワ寄せを一身に受ける取次ぎちゃんは出版業界の被害者なのでしょうか? 本屋さんと出版社が結託して、取次ぎちゃんを追い詰めた結果が再販制度の崩壊なのでしょうか? 

どちらかというと、逆なのです。業界シェア50%を誇る取次ぎは大体の本屋さんと出版社の生殺与奪を握る最強の存在です。KAD〇KAWAと紀伊〇屋が”取次ぎ外し”をするなんていうニュースがありましたが、むしろKA〇OKAWAと紀〇国屋クラス同士でなければ取次ぎは必須です。ほとんどの本屋さんも出版社も経営は取次ぎの存在に支えられているわけです。取次ぎちゃんはとんだ悪女。誰も逆らえません。

そんな取次ぎが、返品率の規制を始めたのです。再販制度は取次ぎちゃんのお情けだったんですね。しかし、出版不況でいろいろ辛くなった取次ぎちゃんは、ついに本屋さんが返品できる本の制限に乗り出したわけです。たしか、仕入れた本のうち30とか40%だったと思います。要するに、本屋さんは仕入れた本のうち(間を取って)35%しか返品することが出来なくなり、残りはどうにか売るか在庫を抱えるしかなくなるわけです。

これは、本屋さんが今までの運営形態を変えざるを得なくなることを意味します。変化は当然企業なり店舗なりごとで違うでしょうが、少なくとも売れない本を無計画に仕入れることは出来なくなるでしょう。確実に売れるワンピースの新刊を減らしてまで、売れるかわからない本をとりあえず仕入れてみる余裕はなくなってしまうのではないでしょうか。

本屋さんが仕入れの口をすぼめると、今度は出版社の番です。買ってもらえないのですから、新刊が出ても出版部数は控えめにすることでしょう。そもそも、新刊発行のハードルを高く設定しなおすことにもなるでしょう。作る商品の数が減るのですから、当然売上も減ります。運営が立ち行かなく倒産するところも出るのではないでしょうか。極端な話“出版”というビジネスが儲からない魅力のないものになってしまうわけです。

もう一度本屋さんに戻りましょう。本の種類が減ってしまいました。商品の種類が減った商店というのは、得てして魅力を失うものです。リアル書店の強みである偶然との出会いは仕入れを絞った時点で弱まるわけですが、そもそも本の種類が減ってはそんなもの期待のしようもなくなってしまいます。残った商品は確実に売れるものだったはずですが、ワンピースの新刊なんてAmazonで予約してほっとけば発売日に家まで届くし、わざわざカレンダーチェックして出かけなければならないし下手したら売り切れの可能性もあるような本屋さんで買う意味なんて大してありません。

 

まとめ

さて、本屋さんも出版社も壊滅ですが、別にわたしはリアル本屋の終焉なんて話をしたいわけではないのです。本屋さんは土地と機材はあるわけですから、中古本なりCDなりDVDなり売って生き残れるんじゃないでしょうか。そこは各々頑張ってください。わたしの本題は文章の行方です。初めにも、文章の書き手がインターネットに移ると言いました。紙の本が多様性を失い書籍化の壁が高層化すれば、越えられなくなった者たちの行き場はインターネットなわけです。別に行き場を失うわけなく、ネットから出られなくなるだけでしょう。これはネットはにも良い文章が増ることを意味するわけですが、それでも粗悪な文章が減るわけではありません。インターネットの文章はますます玉石混淆の体を増し、もしかしたら、出版という後ろ盾を失くしたいい文章が埋もれてしまう未来も来るかもしれません。

でも、これってビジネスチャンスに出来る人もいるかもしれないですね。紙にならない本。デジタルの文章を収益にする仕組みがもっと出来るかもしれません。今だって、ブログの広告料だとかありますし、メルマガとか有料記事とか、デジタルの文章を収入にする仕組みはいっぱいあります。紙の本がなくなった分、そんなデジタル出版とも言えるビジネスがもっと裾野を広げれば、保証を持った良質な文章が今以上に世間に溢れ、簡単に手に入る時代も来るかもしれません。

そんなビジネスにわたしも拾ってもらえる未来を夢見て、今回のまとめにしてみます。

 

 

というわけで、以上わたしの考えでした。

実質これがわたしの初記事になるわけですが、いかがだったでしょうか。真面目に考察したつもりではありますが、いかんせん調査とか勉強とか出来ているわけではないので「こんな風に考えちゃうんですけど、どうですかね?」程度のクオリティです。感想ください。賛同もですけど、反論もいっぱいもらえると嬉しいです。

 

今回は一ヶ月近くかかった上に7125字のちょっとしたレポートのようになってしまいましたが、次回からはもっと軽めの記事を短いスパンで掲載できるように頑張っていきます。

北上さくらの徒然、さくら戦線! 次回は乃木坂とμ’sの話ができたらいいなと思っています。